指導教授の思い出

私と師匠との出会いは、まずは彼の著作からでした。私がまだ地元の大学の修士課程の1年生だった頃。ある先生から、夏休みの課題に院生個別の課題を出されました。その時の私の課題が、「『物語文学の言説』という書物の書評」というもの。
恥ずかしいことに、私はその時、「言説」という言葉を知らず、『物語文学の伝説』とメモを取ったくらい。私の卒論を読んで、方法的弱点がありありと出ていたのでしょうね、その先生は「理論派」の学者の著作を読ませて、そこを徹底補強させようともくろんでくださったのでしょう。さっそく大学図書館で借りて読み始めました。冒頭です。

「追憶の中で彼女の声は微かに響いてくるのだが、その〈声〉を拭い去ることよりも大切なのは、彼女の書いた手紙を抹殺し、消去することなのだ。竹取物語は物語の終わりで、〈声〉を刻み込みながら、〈書くこと〉を排除し、殺戮する。なぜあなたは彼女の書簡を焚書にしたのか。」

思いがけない書き出し。こんな論文は見たこともありませんでした。ここまで読んで、私は「これは大変なことになる…」とその夏の困難さをはっきりと予見しました…まず「「あなた」が誰か分からない」。
私の『物語文学の言説』との格闘の日々が始まりました。

それまで手にしたこともない理論書やそれ専門の辞書を積み上げ、彼の最初の論文集まで遡って必死に咀嚼しました。一つ一つの術語の輪郭がおぼろげに見えるようになり、著者独特の言い回しに慣れ、周辺の論文を押さえるようになると、だんだん彼の姿勢を理解できるようになりました。そうすると次には、…読む私の足下がぐらぐらするような揺さぶりを感じました。
私はいったい、これまで源氏研究と言って何をしてきたのだろうと。
そこからは目から鱗が落ちる瞬間の連続でした。
その書評の課題を出してくださった中世文学の先生に持っていた恨めしさは、感謝に変わりました。
その年の秋の学会で、「本物」をはじめて見ました。「こ、これが…!!」と息を飲みました。本人は、猫背で、ふらふら歩いていましたけれど。
その後、彼が創立メンバーの一人である東京の研究会に通い始めました。もうどきどきしました。それまでの研究に飽き足らない、気鋭の若手研究者が創立して大きくなって行った当時で20年以上続く研究会でした。生ぬるい議論は許されず、妥協は許されず、中年の男性研究者でも議論で叩かれて泣き出して二度と来られなくなった人がいるとかいういわくつき。そこで展開される議論は、私のそれまでいた世界とはまるきり違って、新しくて勢いがあって華やかでさえあった。議論は厳しくも研究に対する真摯な姿勢があって。私は月一開催されるその会に欠かさず通うようになり、上京の前日には興奮してよく眠れなくなるほど、楽しみにしていました。そこでも私は密かにやっぱりこの人はスゴイと内心、今の師匠の発言を聞いてはほれぼれしていました。
修士論文を書いて、博士課程に上がる頃には、自分のやりたいことが当時の大学院では難しいと思うようになりました。転学を真剣に考えるようになり…地元の国立大学も考えたのですが、どうせなら一番好きな研究者の元でと思いました。研究会の二次会の席で、今の師匠に相談したら受験してみたら、とのこと。これほど緊張することはもう今後一生したくないと言うほど緊張した院試も無事終えて、晴れて指導学生になりました。合格の知らせが来たとき、自宅のリビングで飛び上がったのを覚えています。
今でも師匠の前は緊張します。長い時間一緒にいれば、崇拝的な眼差しも変容するものですが、それこそだめなところも間抜けなところも(失礼)全部いいなあと思って見ています。学会ではもの凄くコワイ人と思われているようなのですが(実際私もそう思っていました)、本当に本当に心の優しい人です。何気なくおしゃれで、お酒が好きで、料理上手で、植物に詳しく…、音楽、絵画、映画、本当に何でもよく知っています。

私の研究人生は紆余曲折あって、以前も書いたように日本一の不肖の弟子なのですがそのうち…きっちり研究で恩返しできるような研究者になりたいものです。

これも以前の書き物ですが、こちらに転載しておきます。何もかも懐かしい。

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