六条御息所の絶唱二首

研究とは別の視点で、源氏物語に好きな歌はいくつかあるのですが、「葵」巻の六条御息所の歌は凄いです。

光源氏と六条御息所の関わりは、物語に登場するその始発から、冷めたものとして語られています。もちろん光源氏がかなり強引に口説き落としたんですけど、そのところは語られていないんですね。
「葵」の巻では、光源氏の頼みがたさに、折から斎宮として定まった娘について伊勢へ下向してしまおうかと思い悩んでいます。そこへ有名な「車争い」があるのですね。光源氏が参加する葵祭の行列を見物に、やはり一目でも恋人を見ようと御息所はお忍びで出かけていきます。そこへ光源氏の正妻、葵の上の一行が賑々しく登場して。供の者たちが祭りで酔っていたのでしょう、場所を空ける空けないで喧嘩が起こってしまいます。その騒動で御息所の正体はばれ、「愛人」である彼女は恥をかかされて引き下がらざるを得なくなってしまいます。愛人と言っても大臣の娘でかつては皇太子妃。これ以上ないほどの貴婦人なのですが、光源氏を挟めば正妻より格下ということになってしまいます。しかもこのとき、正妻葵の上は懐妊中でした。
このことを契機に、御息所は一層傷を深め、苦悩が深くなります。それを慰めに光源氏は彼女を訪問するのですが、気持ちが解け合わぬまま朝になり源氏は帰ることに。その美しい後ろ姿を見送りながら、彼女はやはり、この男を振り捨ててはと伊勢下向を考え直すのですが、そうは言っても関係は明るくなりようもなく、それでも私はこの男を待ち続けるだろう、会ってしまったが故のその逡巡の間に源氏から手紙が届きます。今日は病人(妻)が苦しそうなので(行けません)、と。いつもの言い訳、と思いながら、その時彼女が源氏へと詠んだ歌。

袖ぬるるこひぢとかつは知りながら下り立つ田子のみづからぞうき

「こひぢ(泥)」と「恋路」、「みづから(自ら)」と「水」が掛詞、「濡るる」「こひぢ」「田子」「水」は縁語です。
袖が濡れる泥―恋路と知っているのに、その泥の中に踏み込む田子のように恋の道に踏み込んでしまうわたくしは、そういう我が身がつらくてなりません
下り立つ、というところに、生身を恋情にさらす彼女の姿が象られています。この「泥(こひぢ」と「恋路」の掛詞、すごいですね。泣くと分かっている恋に、それでも下り立ってしまう、そんな自分が嫌で辛くてと。

苦悩の極まった彼女は、とうとう、気持ちを保っていられず、心ならずも「生霊」となって葵の上を苦しめることとなります。彼女は誇り高い人ですから、もちろんなろうと思ってなっているわけではなく、我慢して我慢して、自分を律して律して…の果てのことです。その表現が生き霊というここの辺りは、唯一、リアルな小説さながらの源氏物語が現代的な感覚と大きく離れるところですが。しかしこの場面の生霊=御息所の歌もいい。出産間もない正妻はこの生き霊にひどくさいなまれ、どんな加持祈祷も効かない。それが原因で生死の境まで追いつめられます。光源氏に言うことがある、と妻が言うので、遺言もあろうかと親も退いて、祈祷の声も抑えられ、几帳の内に二人きり。そして妻の言葉かと思いきや生き霊=御息所の声で歌が詠まれます。まさに絶唱と言うべき一首。

嘆きわび空に乱るるわが魂(たま)を結びとどめよしたがひのつま

「したがひのつま」とは、着物の下前の褄(下の角)のこと。ここを結ぶと、さまよい出た魂を元に戻せるという言い伝えがあったらしいです。公の関係でない夫(古文ではつまと読みます)、と掛けてあると考えられます。
嘆いて嘆いて、自分の身体を離れてさまよってしまっている私の魂を、あなたの手で褄を結んで、繋ぎ止めて下さい――
そう、光源氏でなければ繋ぎ止められないたましいなのですが、ここまで(源氏は妻を苦しめる生霊が御息所だとはっきり気付いてしまいます)来てしまってはもう、関係の修復もかなわないでしょう。どうにもならない恋の果ての歌。

今の学生たちは、こういう「重たい」のは毛嫌いしそうですが、意外と六条御息所は人気があります。特に女子学生には「一番好きな登場人物」として最も人気が高いです。

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